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ゆとり

 心にゆとりを持つことは大切である。

 例えば、心にゆとりがあると大抵のことは我慢できるし、何しろ、何をしてでも楽しく過ごせることが出来る。逆に、ゆとりがなければ、何に対しても不平や不満を抱くことになる。

 今の僕は、心にゆとりがない状態である。精神的に追い詰められている。こういう状態になると、車のハンドルで言えば、遊びの状態がないので、車の操作が難しくなる。そういった面で、心に遊びがない状態ならば、余裕がなくなり、過度に反応してしまう。

 何気ない他人の言葉が突き刺さるのである。それほど、余裕がなくなっているのである。仕事においても、些細なミスをしてしまう。それを、上げ足をとるかのように、攻め立てられている。

 自分のミスは誰のせいでもない。もっと、しっかりとしないといけないという気持ちがある。ミスを攻め立てれるのは、致し方ないという気持ちもある。ただ、言い方次第で、こちらの取りようも責められるような言葉遣いとは感じないと思っている。

 ただ、このようなことを言えば、自分のミスを認めたくないという気持ちが強いと思われるだろう。しかし、自分の犯したミスに対しては真摯に受け止めている。それが、出来ていないのは、僕の中に甘えがあるからだと思われるだろう。

 これは、言い訳になるかもしれないが、僕は、双極性障害を患っている。健常者ならば、簡単に出来ることも、僕にとっては難しいことがあるのは事実である。やはり、障害をもって働くのは難しいと思わざるを得ない。

 もっと、自分にあった仕事があるのではないのかという気持ちがある。だから、転職を視野に入れて、行動をしないといけない。それでも、こういう状態で転職したとしても、同じような結果になるだろうと思う。

 だからこそ、今の仕事を頑張るしかないというのが最善の策だと思ったりもする。それでも、今の職場を続けられる自信がない。それほど、思い詰めている。障碍者枠で、ハローワークに行って、仕事を探すのも一手段である。

 もっと、視野を広げて選択肢を増やすのは大切である。これからは、頑張って行きたいと思う。
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カレーライスにじゃがいも

 カレーライスにじゃがいもを入れるのはどうだろうか?

 個人的に、じゃがいもが嫌いなので、カレーライスに入っているじゃかいもを見るたびに、思わず、ため息をついてしまう。どうして、君はこのカレーライスに入っているのだろうかと感じてしまう。

 カレーライスに入っているじゃがいもの存在を快く思っていない人はひそかに多いと思う。あのごろごろとした食感は苦手だという人もいるはずである。そこまでして、カレーライスにじゃがいもは必要なのかということが疑問である。

 そういったことが理由で、自分自身からカレーライスを頼むことはない。まだ、結婚しているころに、カレーライスにじゃがいもが入っていた時にはむなしく思えて、別れた妻に対して、話し合いをしたことがある。

 じゃがいもが嫌いなので、もちろん、ポテトサラダや肉じゃがも苦手である。そういったことを言えば、なんて子供じみたことを言っているのかとお叱りを受けそうである。特に、戦後で食べるものが、何もない状態のなかで、好き嫌いなどを言っていることは、御法度である。

 僕の母親などは、宮崎県出身で、鹿児島から近くて、よく、おやつにサツマイモが出されることが多かった。焼き芋は、甘くておいしかったが、食べ過ぎて徐々に嫌いになってきた。それから、芋類は苦手な食べ物となった。

 個人的には、じゃがいもは敬遠したい食べ物である。よく売られているお弁当の中に、ポテトサラダが入っていると、悲しい気持ちになる。それでも、食べ残すのはもったいないので、我慢して食べている。

 そして、フライドポテトも苦手である。よく、マクドナルドに行ってセットメニューを頼まなくて、単品で頼んでから、チキンナゲットを頼んだりしている。それほど、ポテトは嫌いなのである。

 それに関連して、ポテトチップスを食べるのも敬遠している。自分から買ってまで食べるということはしていない。まぁ、ここまで、芋類がダメなのは、いい大人としてどうかと思う。

 まぁ、これからは、もっと温かい目でじゃがいもや、サツマイモなどに対して、観ていきたいと思う。
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ゲーム感覚で

 苦手なことを克服するのはゲーム感覚で行うと有効である。

 今、教習所に行っているのだが、どうしても、苦手なことがある。今までは、それを必要以上に頑張ってやらなければならないと思い込んでいた。ところが、ゲーム感覚で、バイクを乗るように心がけたら、今までとは違った感覚で楽しくバイクに乗れた。

 そうすることによって、苦手なことを克服出来るようになってきた。そうやって考えると、良くも悪くもゲーム感覚で物事にあたることによって、苦手な分野を克服できるのであれば、そう悪いことではないと思う。

 もちろん、ゲーム感覚なので、楽しみながらやることが大事である。ここで、間違って解釈してほしくないのは、遊び半分の気持ちではないということである。例えば、いつもできなかった課題を、どうして出来ないのだろうと思うよりかは、これをクリアすれば、次に進めるといったように思うようにしている。

 これを、仕事に変換していけば、苦手なことをするときに、これを、クリアするようなことを意識すれば、必ず、出来るようになるだろう。思い悩むことは少なくなるのではないだろうかとひそかに期待している。

 もちろん、エッセイを書くことにも応用できる。正直に言うと、最近、エッセイを書くことがうまく書けないというスランプに陥っていた。インプットが少なかったので、アウトプットも思うように出来なかったのが原因である。

 中島らものエッセイは、読み込んでいるが、ほかの人のエッセイも読む必要がある。僕のお気に入りは、さくらももこや、椎名誠に、東海林さだおである。いろいろな人のエッセイを読み込んで、これからはインプットしていきたいと思っている。

 いろいろな人の作品を読み込むことによって、表現の仕方が変わってくる。そして、それが僕の血となり肉となり、新たなエッセイの骨格が形成できるのではないだろうかと考えている。

 もっと、オリジナリティを全面に出していきたい。やはり、アウトプットだけでは、限界が見えてくる。なので、インプットをすることによって、現状を打破できるのではないのかと期待している。

 人それぞれ、感性が違うので表現の仕方は変わってくる。もちろん、僕にとっても表現の仕方はあるだろう。なので、僕は僕としエッセイを書くしかない。それを、変幻自在に書いていくことが必要である。

 なので、ゲーム感覚で挑むことが大切である。肩の力を抜いてやっていきたいと思う。そのために、日々、努力していきたい。それが、今後の成長にも繋がっていくのだから。
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ゲーム感覚で

 苦手なことを克服するのはゲーム感覚で行うと有効である。

 今、教習所に行っているのだが、どうしても、苦手なことがある。今までは、それを必要以上に頑張ってやらなければならないと思い込んでいた。ところが、ゲーム感覚で、バイクを乗るように心がけたら、今までとは違った感覚で楽しくバイクに乗れた。

 そうすることによって、苦手なことを克服出来るようになってきた。そうやって考えると、良くも悪くもゲーム感覚で物事にあたることによって、苦手な分野を克服できるのであれば、そう悪いことではないと思う。

 もちろん、ゲーム感覚なので、楽しみながらやることが大事である。ここで、間違って解釈してほしくないのは、遊び半分の気持ちではないということである。例えば、いつもできなかった課題を、どうして出来ないのだろうと思うよりかは、これをクリアすれば、次に進めるといったように思うようにしている。

 これを、仕事に変換していけば、苦手なことをするときに、これを、クリアするようなことを意識すれば、必ず、出来るようになるだろう。思い悩むことは少なくなるのではないだろうかとひそかに期待している。

 もちろん、エッセイを書くことにも応用できる。正直に言うと、最近、エッセイを書くことがうまく書けないというスランプに陥っていた。インプットが少なかったので、アウトプットも思うように出来なかったのが原因である。

 中島らものエッセイは、読み込んでいるが、ほかの人のエッセイも読む必要がある。僕のお気に入りは、さくらももこや、椎名誠に、東海林さだおである。いろいろな人のエッセイを読み込んで、これからはインプットしていきたいと思っている。

 いろいろな人の作品を読み込むことによって、表現の仕方が変わってくる。そして、それが僕の血となり肉となり、新たなエッセイの骨格が形成できるのではないだろうかと考えている。

 もっと、オリジナリティを全面に出していきたい。やはり、アウトプットだけでは、限界が見えてくる。なので、インプットをすることによって、現状を打破できるのではないのかと期待している。

 人それぞれ、感性が違うので表現の仕方は変わってくる。もちろん、僕にとっても表現の仕方はあるだろう。なので、僕は僕としエッセイを書くしかない。それを、変幻自在に書いていくことが必要である。

 なので、ゲーム感覚で挑むことが大切である。肩の力を抜いてやっていきたいと思う。そのために、日々、努力していきたい。それが、今後の成長にも繋がっていくのだから。
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笑いの絶えない

 さくらももこが死去したニュースを聞いてびっくりした。

 まだまだ、これからが楽しみな女性であった。彼女の漫画やアニメなども面白いものであったが、僕は、彼女が書くエッセイが大好きであった。独特な語り口調で、声を出して笑ってしまった。

 僕にとっては、中島らもの次に好きなエッセイストであった。それは、僕が書いたエッセイを読んで思わず声を出して笑えるようなものを書いていきたいと思っていた。それが、出来ているさくらももこが羨ましかった。

 笑いは、とても大切なものである。落ち込んでいた人が、そのエッセイを読むことによって、勇気づけられることだってある。だから、僕も人を勇気づけられるようなものを書いていきたい。

 だから、常にクオリティの高いものを目指して書いていくことを目指してやっている。なかなか、上手くいかない。だけど、それは言い訳であって、どんな状態でも、面白いものを提供していきたいと思っている。

 日常生活の中で面白いことを見つけ出すのは、ある意味、才能があると思っている。それが、さくらももこのエッセイには自然と満ち溢れている。こんな稀有なエッセイストは、そうそう現れはしないと思う。

 それは、中島らものエッセイとは真逆なものを書いている。こんなにも、正反対な二人が紡いでいるエッセイを僕は自分自身のエッセイを書いていきたい。どんな状態でも、笑いを追求することが大切である。

 例えば、辛い時や、悲しい時でも、常に笑いを追求していきたいと思う。笑いのない生活は、まるで砂漠の中で枯渇している水のようなものである。笑いの絶えない生活を送っていきたいものである。
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芸は身を助く

 悩みを一人で抱え込むのは大変である。

 昨日、弱音というか愚痴を書いたのだけれども、まるで、誰かに相談したみたいな感覚に陥り、ずいぶんとスッキリしたのである。例えば、一人で抱え込んでいれば、風船が徐々に大きくなり割れる手前で発散出来たのが大きい。

 読んでいて不快に思われた方もおられるだろう。それでも、昨日はそんなことは考えもせずに思いのまま書いていった。おかげで、自分自身を守ることが出来たのである。誰にも相談できずにモヤモヤしながらしていけば、たぶん、何もかも嫌気がさして、自己が崩壊していたことだろう。

 幸い、僕には文章を書くという手段があったので救われたのである。芸は身を助くという諺があるように、僕の得意分野である文章を書くことによって、言葉通りに助けられた。おかげで、また頑張ろうという気持ちになれたことが大きい。

 こういった弱音を吐けるというのは、自己防衛のためには大切なことである。誰しもが、どうやって自分自身を守る術を持つのは必要である。僕には、弱音や愚痴を言う相手が少ない。

 いつの間にか、一人で悩んで解決することが必要になってきている。自分の弱さを友人にさらけ出せることが出来なくなっている。変なプライドがあるのか、愚痴や弱音を吐いたとしても、否定されるのではないかという恐れがあるので、友人に対して素直な気持ちをさらけ出すことが出来ない。

 これからも、自分自身で解決しようと思うのならば、文章を書いてストレス発散をしていきたいと思う。それによって、前に進めるのだから、それを活用しないわけにはいかない。そんなわけで、これからは、僕はエッセイを書き続けていきたいと思っている。
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嫌気がさす

 仕事に嫌気がさしてきた。

 どんな仕事でも、辛いことがあるのは理解出来る。それでも、僕の人間性を否定され続けているのには、精神的に参ってしまう。そこまで言わなくても、と思うようなことをズバズバと言われて、毎日、同期の顔色をうかがいながら働くのがつくづく嫌になってきた。

 躁鬱病だからと言って、病気を理由にはしていない。それでも、僕の精神状態はぎりぎりのところである。それでも、畳みかけるように罵倒される。健常者でもノイローゼになるくらいのものである。

 ある種、パワハラとして感じている。働くことが苦痛になってきているのが正直な気持ちである。そんなこともひっくるめて考えると自分自身が嫌になってくる。気を使っているつもりが、そんなものは言い訳に過ぎないといわれると、どうしていいのかがわからなくなってくる。

 自分自身のことしか考えていないと言われ続けている。そんなことは決してないのだが、その人にとっては、僕は、他人のことを考えていないと言われる始末である。もう、どうしていいのか、わからないまま働き続けている。

 僕は、どうすればいいのかがわからない。まるで、暗いトンネルの中に一人で迷い込み、どこに進んでいいのかすら分からないような感覚を覚える。僕は、自分自身を殺しながら生きていかなければならないのか?

 人に調子を合わせて生きていくのが大人なのならば、僕は、そんな大人にはなりたくない。極論を言えば、人はみな、自分自身のことを考えて生きているのではないだろうか?僕だけが責められるのはお門違いだとは思う。

 忙しかったら、機嫌が悪くなり、僕だけを責めるのはどうかと思う。確かに、給料をもらって働いているのだから、ある程度は我慢すべきなのだろう。それでも、今の状態は、我慢の限界にきている。

 ここまで、書けば一人で仕事をするしかないと思われる方もいるだろう。確かに、その通りである。それでも、一人で働いたとしても、クライアントや編集者と関わることは必須である。一人で仕事をするということは桃源郷の世界である。

 一人で働いたとしても、実際には、多数の人と関わらないといけない。なので、究極的には、一人で働くということは決してないのである。だからこそ、僕は、今は我慢すべきなのかもしれない。それでも、躁鬱病の状態が悪化するようになれば本末転倒である。どういう道を選択すればいいのかわからない。とりあえず、今は、様子を見ながら働いていきたいと思う。
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マルチな才能

 マルチに活躍している人を見ると羨ましくなる。

 それというのも、僕には、マルチな才能は持ち合わせていないからである。ないものねだりはわかってはいるが、僕もマルチに活躍したいと思っている。ただ、僕にも他人よりも秀でている点はある。

 それは、わかりやすい文章を書くことである。心がけているのは、中学3年生でも読めて楽しいものを提供することである。一見、簡単そうに思えるかもしれないが、実際に、書いてみると、これがなかなか難しい。

 それでも、そのことを心がけて書いているうちに、自然と書けていくものである。そこに、到達するのには時間がかかった。分かりやすい文章を書くことは、例え話をするのがミソである。

 それをするのには、自然な流れで書くことが重要である。もちろん、いつも、上手く書けることは出来ない。それでも、僕はわかりやすい文章を書き続ける必要がある。それが、出来るならば、僕自身のオリジナリティが生まれるからである。

 僕にしか出来ないことがあるので、それを目指して頑張っていきたい。これから、エッセイを量産しなければならないので、常に、初心を忘れずにやっていくことが必要である。それが出来れば、面白いエッセイが書けると考えている。

 もっと、感受性を伸ばすことが必要である。なので、イラストを描いたりしてみたり、お気に入りの音楽を聴いて、そこから、着想を得ることもあるだろう。オリジナリティは模倣から始まる。

 僕が敬愛している中島らものエッセイを読み込んでいき、どういう展開で話を進めていけばいいのかを分析してみたいと思っている。躁鬱病でアルコール依存症を患っていながらでも、常に笑えるようなエッセイを書いている。

 僕も、同じような立場にいるので、中島らものエッセイを参考にしていき、自分なりのエッセイを紡いでいきたいと思っている。そして、読者に対して笑えるようなエッセイを提供したい。

 これからは、躁鬱病に関しても、笑いに変換できるように書いていきたい。決して、悲壮なものを書くことはしないようにしていきたい。だから、笑えて楽しいエッセイを書いていくのが、今後の目標でもある。
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現実は厳しい

 現実は厳しい。

 自分が思い描いていた人生を送っていけないことのほうが多い。例えば、日々の業務や雑務に追われて、自分のためにまとまった時間を持てず、趣味をする暇もない人も多いのではないだろうか?

 ましてや、自分の夢や目標を追い求めるということは、現実問題としては難しい。いくら、お金を持っていたとしても、それがなければ幸せとは言えないのではないだろうか?どんなに、難しくても、何かを犠牲にすることが必要になる。

 睡眠時間を削り、お気に入りのDVDやテレビドラマを見る時間はない。それでも、やっていくことに対して不満を抱いたことはない。それをすることによって、夢を達成するために、近づいていると感じているからである。

 たとえ、厳しい道のりであったとしても、それを乗り越えるための力が必須である。何度も壁にぶち当たるだろう。それでも、決して諦めずに、前へと進んでいきたい。いつの日か、夢がかなうようにしていきたい。
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遅れてごめーん

 僕と、小学校時代の仲間内で流行っていたことがある。

 それは、恥ずかしながら、スカートめくりである。スカートめくりと言えば、小学校低学年か中学年くらいで卒業するのだけれども、僕たちは、小学校高学年になってもスカートめくりをやっていたのである。

 要するに、スカートをめくることによって女子の反応が見たいからであり、決して、下着を見るという要素は少なかったのである。これも、悪ふざけの一貫である。毎回毎回スカートめくりをしている訳ではない。

 女子が、隙を見せたらスカートめくりをする。そうすれば、思っていた以上に、過敏に反応するから、それが、楽しくてやっていただけのことである。決して、セクシュアルなことを期待はしていないのである。

 だからこそ、スカートめくりに対して、女子は隙を見せないようにしている。そこらあたりの駆け引きが面白くて、辞めずにやめられない状態に陥っている。決して、生真面目な女子にスカートめくりはしないように自重していた。もし、生真面目な女子にやってしまったら、担任の先生に言われて、僕らがやっているスカートめくりに対して、怒られてしまうからである。

 それでも、中には仲間内で、生真面目な女子にスカートめくりをしたやつがいた。そいつのおかげで、げんこつを食らわされる始末である。大体において、仲間内でも、後先考えずに、やってしまうやつがいるから災難である。

 ある時、女子だけ体育館に集まったことがある。その間、男子は自由時間となり、好き勝手なことをやっていた。やがて、女子が帰ってきたときに、何の話があったのかを聞こうとしても、決して内容は教えてくれなかった。

 今となれば、理由は分かるが、当時の性知識にはないことであった。だから、必要以上になぜかと聞いても、顔を真っ赤にして話をそらす素振りが、何とも思わせぶりであった。今から、考えると男子生徒にも、女性は生理があり、妊娠することが出来るようになったということで、性教育の一貫にもなると思うがどうだろうか?

 そうすれば、スカートめくりを卒業出来たのかもしれない。逆に、もっと、スカートめくりをしていたのかもしれない。そこらあたりは藪の中である。話題は変わるが、今のコマーシャルでは、考えられないようなものをやっていた。それは、笑福亭鶴瓶、三日月のかぶりものをして、「遅れて、ごめーん」というコマーシャルをやっていた。当時は、意味が分からなかったけれども、理由が分かったときには、上手いことを言うなと思った次第である。

 今の時代では、考えられないシュールな笑いを提供していたコマーシャルである。後、印象に残っているキャッチコピーは、「おしりだって洗って欲しい」である。こういう、ひねりのきいたコマーシャルが少なくなってきている。だから、何度見ても、感心するようなキャッチコピーが出てこない。それが、今の僕にとっては不満である。もし、僕がコピーライターなら、ひねりのきいたキャッチコピーを考えたいと思っている。

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