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リフレイン

 突然、ある言葉が浮かんでリフレインすることがある。

 昨日の僕は、まさにそうであった。その言葉は、「チカンはアカン」である。これが、エンドレスリピートのように、僕の頭の中を駆け巡る。何故、このフレーズが出たのかすら、分からない。

 まるで、悪魔に憑りつかれたかのように、「チカンはアカン」が聞こえてくるかのようであった。それから、昼休みには、何故か知らないが「ゴイゴイスー」というフレーズもリフレインしていた。

 とうとう、僕の頭がおかしくなったのかと思わずため息をついてしまった。何故、この奇妙なフレーズたちがリフレインするのか意味が分からない。分からないと言えば、学生時代にテストのことを思い出す。

 よく、先生に言われていたのが、分からない問題は、あとに回して、先に、分かる問題から解けと言われていた。ところが、僕は、高校時代、バレー部で忙しくて、練習が終わり、自宅に戻ると、もうへとへとで勉強などは、そっちのけであった。

 しかし、赤点をとれば進級出来ないので、テストの時は、一夜漬けで何とかしのいでいたものの、いざ、大学を受験することになり、実際に、問題用紙を配られてから見ると、全く持って、分かる問題が一問もなかったのである。

 分かる問題を丁寧に探していたら、結局は、ほとんどの問題が日本語で書かれていたようにはおもえないくらい、僕には分からなかった。あれほどの屈辱は、僕が生きていた中で、五本の指に入るくらいであった。

 やはり、日ごろの行いが悪かったのである。部活にかまけて勉強はそっちのけであった結果がこのありさまであり、惨敗を喫した。まぁ、現国だけは得意分野だったので、分かる範囲は多かったが、英語や世界史などは、全く歯にも立たなかった。

 今更、悔やんでも仕方がないけれども、やはり、予備校に通って大学に行くべきだったと思うことが多々ある。それでも、友達が、バイトや遊びなど夢中になっていた時に、僕は社会人として、ある程度の基礎は学べたと思っている。

 それにしてもだ、この歳になると、やはり、大学生活にはあこがれを抱いてしまう。憧れのキャンパスライフを送ってみたいものである。覆水盆に返らずという諺があるように、もう、元の状態には戻れない。

 あとは、感性の問題である。自分で言うのもなんだけれども、感受性は人よりかすぐれていると思っている。だから、先ほど述べたような、言葉が浮かんできてリフレインするのである。

 こういった感性をもっと違う分野で活かせればいいのにと思っている。そのために、日々、こうして、エッセイを書いて更新しているのである。いつか、必ず花が咲くだろうと思いながら、常日頃、生きている。まさしく、これは、生き方の問題である。

 どれだけ、プライドを持って生きていけるかである。自分の中にある誇り高きものを、全力で出し切りたいと考えている。「チカンはアカン」や、「ゴイゴイスー」など、意味不明な単語が思いつくのならば、もっと、面白いことが起きるだろう。今後は、それを注意深く見守っていきたいと思うのであった。

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短い言葉でも

 喩え、短い言葉でも思いを伝えられたらいいと思っている。

 基本的に、このエッセイは1000文字前後を目標に書いている。たまに、長い文章になったり、短くてすます場合がある。それでも、思いを伝えようという気持ちには変わらない。だから、一括りで、長いからいい文章とは限らないし、短いから駄目だということもない。

 特に、思い入れのあるエッセイは長くなる傾向がある。しかし、思い入れがあっても、短くてすます場合がある。結局は、読者に対して、僕の思いが伝わるかどうかの問題である。

 そして、文章の長さも気にはしている。その一方で、言葉使いを出来るだけわかりやすく、難解な文章を書かないようにしている。もちろん、僕の語彙が少ないからという理由もある。分かりやすいエッセイを書くように心がけている。

 今回、出版予定のエッセイ集も分かりやすい文章を心がけていて、尚且つ、文字数も、1000文字前後で読みやすく仕上げていこうと考えている。僕なりの視点で書いているので、同調してもらえるかどうかは分からないけれども、楽しく読んでもらえればと思って書いている。

 このブログでも、分かりやすくて読みやすい文章を書くように心がけている。楽しいことや、悲しいこと、辛いことなど、素直な気持ちで書いている。変に誇張したりしないようにしている。わざと笑いを誘うような文章を書いていると、余計に文章が崩れてしまう。

 だから、そういったことのないように、分かりやすい文章を書くようにしていきたいものである。自分が抱いている思いが伝われば、それでいいので、余計な粉飾や揶揄に、誇張をしないようにしていく。

 あくまでも、基本的には自分自身が楽しめるような内容を書くようにしていきたい。そして、その結果として、面白いエッセイになればいいと思っているのである。これからも、こんな僕が書くエッセイをよろしくお願いします。

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僕の野望

 この頃、宇多田ヒカルと福山雅治のアルバムを繰り返して聴いている。

 僕の性格では、気に入ったら、ヘビーローテーションで音楽を聴いてしまう。これは、何も、歌手のアルバムだけではない。もちろん、映画やエッセイに、小説など、何度も観たりしている。

 こういったら、皆から不思議がられる。何度も観たり、読んだりしても飽きないのかと聞かれることが多い。それでも、僕は、飽きるどころか、音楽や、映画にエッセイ、小説などを観たり聞いたりしていると、あらたに気づいたりすることが出来たりするのである。

 例えば、小説ならば、村上春樹の初期の作品や、トムクランシーやら、パトリシアン・コーンウェルなど、何度も読み返したりしている。映画は、マトリックスや、コンスタンティン、羊たちの沈黙、ゴッドファーザー、あとは、ジョニー・デップが出演している映画や、エッセイは、中島らもやさくらももこの作品を読んだりしている。

 昔の僕は、本屋に行くことが好きだった。そして、ずっと周りを見渡していると、不思議なことに、この本は、僕が読むべき本であるといった直感が働いていた。そして、それが外れることがなかった。

 それだけではなく、レンタルのDVDも同じように、パッケージを見るだけで、いい映画だと思ったりして借りたら、こちらも期待が外れることはなかった。だから、どんなB級作品だったとしても、いい映画に巡り合うことが出来た。

 毎月のように、本は、10冊以上買ったり、DVDも最低週に5本は観ていた。結構、充実した時間を送ることが出来た。さすがに、今は、そんな贅沢は出来ていないけれど、図書館を利用している。

 それでも、やはり、同じ作家の本を読んだりしている。今の僕がはまっているのは、さくらももこのエッセイである。おそらく、男性でさくらももこのエッセイを読むのは、珍しいかもしれないが、本当に、面白いし、僕が書こうとしているエッセイにも役立っている。

 これからは、もっと、日常で起こった出来事をこまめに書いていきたいと思っている。何が楽しかったのか、悔しかったのかといったことを、さらに、深く追求していき、掘りこしていきたいものである。

 これから、僕も、さらに深い状況を追求していきたいと思っている。そして、思わず、ほっこりとしたり、笑えたり出来るようなエッセイを、今以上に書いていきたいと思っている。僕の野望は、限りなく続いていくばかりである。

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最高のプレゼント

 今日で48歳になる。

 特に、誰からもお祝いの言葉を言われるわけでもなく、一人きりで誕生日を迎えるのである。ただ、僕の誕生日会などをやられると照れるだけなので、そっとしといて欲しいという気持ちとは裏腹におめでとうと言われたいという気持ちもある。

 複雑な年ごろなのである。今日は、自分自身に対して、お疲れ様という意味で、ちょっとだけ、贅沢に過ごしていきたいと思う。贅沢と言っても、すき屋で牛丼の並から、大盛にするくらいだけのことである。

 本当に、それだけでいいのだ。他には何もいらない。もうすでに、自分自身へのプレゼントを買ったから、あとは何もいらない。子供のころは、誕生日が来るのが嬉しくてたまらかった。しかし、いつの間にか、冷めた目で誕生日を過ごすことが多くなってきた。

 誕生日プレゼントを貰えたのは、別れた妻と恋人の関係だったときである。その時は、素直に嬉しかった。しかしながら、バツイチとなり恋人と呼べるような関係を持ったことはなかったので、誕生日を迎えても、何も感じなくなってきた。

 これでいいのだ!といったような叫びたい気持ちを抑えながら、こうしてエッセイを書きながら、思っている。この数時間後には、仕事が始まり、誕生日のことなど忘れるだろう。

 最高の贅沢は、日がな一日中何も考えずにゴロゴロとしたいのである。それが、僕にとっての贅沢な時間である。決して、おしゃれをしてフランス料理を食べに行くというシュチュエーションは、全くないのだ。

 誕生日なんてものは、たかが365日分の1日ではないか。そんなことで、舞い上がるほどうぶではない。そういった気持ちで、毎年過ごしている。そして、もうすぐすれば50歳になる。40代から50代に変わる時には、僕は一体どうすごしているんだろう。

 夢が叶って、プロのエッセイストになっているかもしれないし、未だに、今の工場でうだつの上がらない日々を過ごしているかもしれない。それは、誰にも分らないのである。ただ、自分自身に対して、プライドを保ち続けていきたいとも思っている。他人から見れば、くだらないのかもしれない。

 しかし、そのプライドを維持しながら頑張って行きたいと思う。そして、プロとしてのエッセイストとして活躍できるようにしたいものだ。それが、僕にとって最高のプレゼントとなるだろう。

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天然なのは

 昨日、自分への誕生日プレゼントのために靴を買いに行った。

 25日で48歳になる。もう、50歳は目前に迫っている。そんな僕だけれども、相変わらずおっちょこちょいな面が顔を出してくる。昨日も、そうであった。靴を買ってから、本屋に寄ろうかと思い、何気なくDVDを販売しているコーナーがあった。

 そこで、ポップが張られてあり、そこには、アダルトと書いてあるので、なんてけしからんコーナーだと思い、どういうのが売られているのかを見に寄ろうとして、もう一度、ポップを見直すと、そこには、アダルトではなくてアイドルであった。

 また、とんでもない勘違いをしてしまった。アイドルとアダルトでは、アしかあっていない。どこをどう読んでも、アイドルしか見えない。なぜ、アダルトなどと思いこんだのかは、自分でも不思議に思う。

 アダルトビデオなんてものは、もう、何十年も観ていないし観ようとも思わない。だから、一人エッチはどうしているのかと聞かれたことがあるけれども、これも、また何年もしていない。そんなことをして喜んでいるのは、青春時代の若者である。

 ひょっとしたら、あらぬ妄想が産まれてきたのではないのかと冷静に判断してみる。密かに、思いを寄せている女性がいる。今度、一緒に食事に行く予定である。その女性と、そういった関係になることが妄想となったのかもしれない。

 もちろん、そういう展開になればいいけれど、おそらく、そういった関係にはならないであろう。僕から迫ることはないし、相手も、そういった思いで食事をすることはないと解釈している。

 ただ、久しぶりに異性と食事をするのは、素直な感情としては嬉しい限りである。同い年なので、話題はあうので、会話をすると楽しい。そこから、色々な話題が出てきて、エッセイのネタが産まれるかもしれない。

 こうして、他人と会話をすることで、僕の中で発想が豊かになる。そこから、インスパイアされたものが、エッセイとして変換していくのである。まぁ、またとんでもない勘違いをするかもしれないけれども。

 今回みたいな間違いを犯さないようにしようと思っていても、そういった時にこそ、恥ずかしい間違いをするのであった。だてに年を取っているわけではない。しかし、天然なのは、生まれつきなので、仕方のないことである。さて、今日はゆっくりと過ごしていきたいと思う。

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死亡説

 今は、高校の卒業シーズンを迎えている。

 かつては、当たり前のことだが、僕も卒業式を迎えた。その当時、唯一、卒業後の進路が決まっていなかった。予備校に通うことも考えたが、どうせ、勉強をするわけではないと思い、就職することも、何だか違うと思っていた。

 当時、バブルで就職先には困らなかったが、元来、ぐうたらな性格の僕はアルバイトをしながら、将来のことを考えようかと呑気に考えていた。しかし、高校卒業して、レーサーレプリカのバイクを購入したが、あろうことか、納車3日後に廃車になる事故を起こして、それから、僕は、全身打撲やら、左右や足の親指を骨折する事態となった。

 僕が、事故を起こしたということは、同級生の間にたちまち広がり、ひどいのは、僕の死亡説がまことしやかに流されたのである。それを、確かめに僕の家まで来た同級生が、様子を見に来る次第となった。

 怪我をしたので、アルバイトにも行けずに、回復するまで、ぼーっとしていたのである。そこで、ふと思いついたのが、コピーライターになろうということであった。その根拠は、中学時代に標語のコンクールで佳作をとったという、なんとも、安直な発想である。まぁ、自分らしい思い付きであった。

 そんな思いとは裏腹に、どこの誰が、こんな僕を雇うだろう。そんなことも考えずに、お気楽に考えていた僕に対して、厳しい社会の洗練を受けたのであった。もともと、本当に、コピーライターになりたかったら、コピーライター養成所に通うという手段もあったが、基本的に、お気楽な僕は、そんなことすらも思いつかなかったのである。

 ただ、将来的には、何かしらクリエイティブな仕事をしたいと思っていたのは事実であった。大分、時間はかかったが、今は、エッセイストになるために、このぐうたらな僕でも、頑張っているのである。

 今回は、このぐうたらでお気楽な僕でも真剣に取り組んでいる。産まれて初めての経験である。だから、道半ばで挫折することなく頑張って行きたいと思う。僕の書くエッセイで、シュールな笑いを提供できればと考えている。

 僕が目指しているシュールな笑いで世間を席捲していきたい。文庫本を出版するたびに、飛ぶように売れていき、老後の心配をすることのないようにしていきたい。最後の最後まで、やはり、僕はお気楽ものであるということを再認識するのである。

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顔から火が出るくらいに

 間違った思いこみを長い間抱えていたことがある。

 人間、誰しも多少の思いこみがあるだろう。僕の場合は、踏ん切りがつかないということを、糞切りがつかないという思い込みをしていた恥ずかしい思い出がある。僕の場合は、糞がなかなかキレが悪いとおもっていたのである。

 要するに、キレが悪くて気持ちの悪いといった間違った思い込みで糞切りがつかないと考えていたのである。実際は、踏ん切りがつかないというのであった。何となく知っているようで、知らない言葉を辞書で調べた時に分かったのである。

 長年、思いこんでいたので、初めて知ったときは、少しばかり驚いたものだった。これ以上、恥ずかしかったのは、高校時代に、漢字のテストがあり、矜持(きょうじ)と書かなければならないのに、僕は、自信満々にねんじと書いたのであった。

 それには、理由があって、僕はてっきり俳優の小林稔侍と読み間違えていたのであった。よくよく、考えてみれば高校のテストで俳優の名前なんて出ないと分かるものだけれども、こうして、思いこんでおっちょこちょいに自信満々で書くなんて、まるで顔から火が出るかのように恥ずかしい限りであった。

 こうして、僕の思いこみやら、早とちりのために、恥ずかしい思いをしたことが枚挙にいとまわない。だから、まずは、いったん、正解を出すために、ひと呼吸を置くようにしているが、そんな簡単に問屋は降ろさないのが現実の世界である。

 今までと同じくらいに、思い込みや、早とちりをしているので、社会人になっても、僕の行動は、基本的に変わっていない。そのうえ、未だに、思い込みやら早とちりをしている。今では、そういった自分自身を受け入れて、このまま生きていくしかないだろうと思うのであった。

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シュールな視点

 一体、自分の得意分野は何なのかを把握しないといけない。

 ここ数日、シュールな笑いを意識して、エッセイを書いていたが、どうも、しっくりこない。笑いを求めるあまり、自分らしさが発揮出来ていない。自分の文体を活かすように、書いていかないといけない。

 僕の特徴としては、文体は淡々とした書き方である。そして、シュールな笑いを追求しようとして、それが崩れてしまったのである。もっと、自分らしく、シュールな笑いを提供できるように頑張っていきたい。

 こうして、客観的に見れば自分の文体が崩れることのないようにしていきたい。そのうえで、シュールな笑いを提供できるようになっていきたい。今後は、その所を捉えていきたい。

 前置きは長くなったが、僕は乾燥肌である。もう、いたるところがかゆくて仕方がない。シャワーを浴びるけれども、余計にかゆさが増すのである。皮膚科に行かなくてはいけないと思うが、なかなか思うように時間が取れないでいる。

 こうなったら、敏感肌に優しいような保湿クリームが欲しい。女性用のものを使ってみてはどうかと思ってみたりもする。シャンプーやコンディショナーも使用していきたいと思っている。

 身なりをきっちりとすることが大事である。別に高価な服を買う必要はない。こぎれいにしたら、そしたら、身も心も軽くなり、どこかに出かけたくなる。僕が引きこもっていた時は、身なりはお構いなしで、不衛生な状態であった。

 このままではいけないと思い、徐々に身なりをこぎれいにしていったら、体内にたまっていた毒素が抜けていくような感触を得たのである。それくらい、天と地の差があるかのように、考え方や人との付き合い方が変わっていく。

 そしたら、冗談も言えるくらいにまで回復出来たのである。それと同時に、エッセイを書き始めた。初めは、手探りの状態で、今のような文体には落ち着いていなかった。あれやこれやと試行錯誤をしながら、ようやく前に進んでいる状態である。

 これを、毎日書き続けることによって、文章力は以前とは比べ物にならないくらいである。僕の中では、まだまだ、成長は出来ると考えている。ということは、まだ、伸びしろがあるということだ。

 そして、日々、シュールな視点で物事を見ていきたい。そうすれば、自然と自分の文体で笑えるようなエッセイを書けると考えている。最初からは、上手くいかないかもしれないけれど、挑戦する価値はあると思っている。だから、今後のエッセイを楽しみにして欲しいと思う。

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老いる

 テレビを見ていて、俳優さんの名前が思い浮かばないときがある。

 こういったことを体験すると、僕も歳をとったなと思う。このまえなどは、深夜にドラマの医龍を再放送していた。すると、女優さんが出てきて、どうしても名前を思い出せない。こういった経験は、誰しもが一度は経験していると思う。

 あと、もう少しで思い出せそうだけれども、なかなか思い出せない。モヤモヤとした感情を抱き、深夜なので、誰も寝ているだろうから聞けない。そこで、ネットで調べると、名前が分かった。その女優さんは、稲森いずみさんであった。

 こういう時には、ネットで簡単に調べられるので有り難い。しかし、ネットが普及するまでは、顔は分かるのに、名前が出てこないといった状態になったときには、思い出せないとモヤモヤした気分で過ごさないといけない。

 そして、自分自身で思い出した時には、スーッと胸のつかえがとれる。こういうことがあると、将来、僕は認知症になるのではないのかと不安になる。徐々に記憶が薄れていくなかで、個性も失われて、自分自身が誰なのかさえ、分からないといったことになるだろう。

 だから、こうして、くだらないことでも、エッセイとして書いて、これが、外部記憶装置となる。つい、数年前のことも思い出せないときがある。ハッキリ言って、僕は、ぼけているのである。

 ある意味、天然ボケのところはある。そういう自分が嫌になる。とはいっても、長年、自分自身と付き合っていたのだから、嫌になると言っても、どうしようもないのである。この際は、ボケている自分自身を受け入れて生きていかないといけないのである。

 まぁ、これからも、天然さが爆発するかもしれないけれど、温かい目で見てもらいたいものである。

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立っているのに立っていない

 若い頃といっても学生時代の話である。

 男子にとって、精力を持て余している時期である。起床時に、勃起をしてしまう。これは、何も、セクシャルことではなく、おしっこがたまっているときにでも勃起をしてしまうのである。

 高校時代は、授業はそっちのけで、ふざけているか、おとなしいと思ったら、寝てしまったりしている。ここで、うっかりと勃起をしてしまい、休み時間であるが、立って遊ぶことは出来ない。

 立てないのに立っているという矛盾した事柄が起こる。学生服のズボンに見事なテントが張られているのである。男子ならばわかることだろう。そんな姿を女子生徒には見られたくない。

 いざ、おさめようとしても、おしっこをすればいいのだけれども、見事にテントを張った姿をさらさないといけないので、それだけは、絶対に避けたいものだ。だから、そのテントを張っている友人を取り囲むように、僕たちは円状になって、トイレまで行くのである。

 そういった馬鹿なことを平気でやっていた高校時代。もちろん、性に関しても興味津々である。当時は、ビデオデッキを持っているのは少なかった。我が家にビデオデッキが来たのは、高校二年生のときである。

 そのときは、ハリウッド映画やジャッキーチェンの映画を観ていた。アダルトビデオなど観るという機会はめったになかった。たまに、バレー部の先輩から家に呼ばれて、裏ビデオなどを観たのであった。

 感想と言えば、なんてグロテスクなものなんだということであった。それ以来、裏ビデオなどは観ていない。たまに、観てもモザイクがかかっているものを好んで鑑賞していた。それでも、そう頻繁には観ていなかった。

 ファーストコンタクトが、あまりにも強烈だったので、アダルトビデオに、それほど興味を抱くことはなく、それを観るのならば、洋画や邦画などを観ていた方がよほど楽しいし、嫌悪感を抱くことはなかった。

 そのおかげで、今でも、アダルトビデオは観ていないしエロ本も観ない。よく、不思議がられるが、オナニーもしないし、夢精もしない。僕の精子はどこに行ったのだろうと思うくらいである。もう、ここ何年も、女性とエッチなどはしていない。

 それでも、これといって別に対策を練るわけでもなく、自然のなすがままである。もう、歳が歳だし、生臭いのはもういいやと思ったりもしている。もちろん、女性とそういった関係になれればいいのだけれども、どうしても、そうなりたいとは思っていない。もう、僕のイチモツは、おしっこをするだけのものとなっている哀しい現実が横たわっている。もう、若い頃には戻れないということを嘆きにも似た感情を抱きながら、今日も生きている。

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